「更科紀行」を歩く


中津川のはずれ、落合から十曲峠をのぼりつめるところから、いよいよ木曽十一宿がはじまる。落合からの木曽路の眺めは、広重と英泉の浮世絵「木曽街道六十九次」のなかにも描かれている。

貞享5年(1688)8月11日。松尾芭蕉は木曽路をたどって信州更科にいたり姨捨の月をみる旅を急いでいた。

「木曽路は山深く道険しく、旅寝の力も心もとなしと・・・」(更科紀行)

新茶屋の道ばたに「送られつ送りつはては木曽の穐」(天保13年・裏梅園古狂)という句碑が建ててあった。


石だたみの道

美しく保存された宿場町・馬籠は信濃と美濃の国境の町である。

幕末から維新にかけて、徳川家に嫁ぐ皇女和宮が・・・、水戸浪士天狗党の一隊が・・・、「宮さん 宮さん」の歌と共に官軍がここを通って行った。

ゆるやかな坂道にそって宿場らしい家並みが続く。

そして、島崎藤村の故郷であり、「夜明け前」の舞台である。日本の現代文学は島崎藤村をのぞいて語ることはできない。

昭和27年、藤村の生家、本陣趾に藤村記念堂が建てられた。復元された黒塗りの門と、白い練塀が美しい調和を保っている。

近くに藤村の菩提寺永昌寺がある。藤村の墓石に「文樹院静屋藤村居士」と刻まれている。

馬籠峠の歴史は古く、和銅年間にはひらかれていたという峠道である。
明治24年夏、25歳の正岡子規も東京から四国への帰省の道を木曽路にとり、芭蕉とは逆に西に向かった。もちろん芭蕉の「更科紀行」が念頭にあったという。

木曽路をたどった芭蕉は、1日に十里から十二里を行くというかなりの強行軍であったらしい。もちろん馬の背も借りた。

「何々といふ所にて、六十計の通心の僧、面白げもをかしげもあらず、ただむつむつとしたるが、腰たわむまで物負ひ、息はせはしく、足は刻むやうに歩み来れるを、伴ひける人の哀れがりて、おのおの肩に懸けたるもの共、かの僧のおひねものと一つにからみて馬に付けて、我その上に乗す。(中略) 鞍のうへ静かならず。只危うき煩ひのみ、やむ時なし」 (更科紀行)

 

江戸時代、木曾十一宿のひとつとして栄えた須原宿は水が豊かな宿場町だった。道にそって流れる用水、俗に鉄砲町とよばれる長い町並み、雁木つくりの格子戸。

往時のおもかげを色濃く残す街並みに水をたくわえた水舟がいくつか残されている。

人々はこの井戸で朝夕の支度を整え、旅人は宿に着いた安堵ともに渇いた喉を潤し、力づけられるようにして、旅の先をめざした。
井戸の水はいまも絶えなく、人々はあふれる水の恵みに感謝し、水舟はその面に変らぬ木曾の山影を映している。

古刹・定勝寺は日本の「そば切り」の起源とされている寺である。

[「信濃史料」によると、天正2年(1574)2月10日に木曽の定勝寺では仏殿等の修理を始めた。その「番匠作事日記」中の「同(作事之)振舞同音信衆」に、「徳利は一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」および「振舞ソハキリ 金永」という記述がある。

3月16日の竣工祝いに、千村淡路は蕎麦一袋を寄進し、金永という人物はそば切りを振る舞ったのである。「ソハフクロ」はおそらく蕎麦粉であろう。そばを贈答品に使う風習はこのころからあったのである。これによると、木曽では天正年間にそば切りが作られていたことが明らかである。](長野郷土史研究会機関誌「長野」167号 関保男「信州そば史雑考」より)

須原名物、桜の花漬け。正岡子規も名物なればと花漬け二箱を買わされたという。須原を過ぎると、木曽谷のなかでも難所といわれた桟である。

桟やいのちをからむつたかづら 松尾芭蕉

なかなかにいひもはなたで信濃なる木曽路の橋のかけたるやなぞ 「拾遺集」源頼光

おそろしや木曽のかけ路の丸木橋ふみ見るたびに落ちぬべきかな 「千載集」空人法師

木曽路第一の宿場町・木曽福島を過ぎると、次は宮ノ越の宿。その宮ノ越のはずれにある徳音寺は木曽義仲の菩提寺である。木立にかこまれた境内の墓地に悲劇の将軍木曽義仲がしずかに眠っている。

芭蕉は「更科紀行」のなかにあらわに木曽義仲のことを書きつづることはしていないが、深い山の国から都に攻め上がった義仲のはかない運命にたいする密かな思いが宿りつづけていたに違いない。

芭蕉の義仲によせる思いは「更科紀行」の後半にさりげなく織り込まれている。

「夜は草の枕を求めて、昼のうち思ひ設けたるけしき、結び捨てたる発句など、矢立取り出でて、燈の下に目を閉ぢ、頭たたきてうめき伏せば、かの道心の坊、旅懐の心憂くて物思ひするにやと推量し、我を慰めんとす。(中略) 都の人はかかるものは、風情なしとて、手も触れざりけるに、思ひもかけぬ輿に入りて、せい椀玉巵の心ちせらるる所がらなり。」

薮原の宿を過ぎると、いよいよ木曽川と信濃川にそそぐ奈良井川との分水嶺と知られた鳥居峠だ。一方の水は太平洋に、いま一方は日本海に流れ込む。永享3年(1431)の開道といわれ、木曽谷最大の難所として恐れられていた。

雲雀より上にやすらふ峠かな  芭蕉

芭蕉は峠の道すがら、いくつもの橡の実を拾い、名古屋の荷兮への土産にした。

木曽のとち浮世の人のみやげ哉  芭蕉