「み仏とともに〜一條智光上人の心とことば〜」


善光寺本堂(国宝)

善光寺如来への道を歩みつづけた善光寺上人第120世善光寺大本願法主 一條智光台下は平成12年1月御遷化されました。94歳でした。お上人さまが生前残されたお言葉をもとに御遷化特別番組を構成しました。めまぐるしく移り変わる現代において私たちはどう生くべきか、大切にすべき事は何かをお上人さまにお教えいただきました。



「わたくしは満5才と6カ月にて仏門に入り、80歳を過ぎた今日までみ仏のお給仕をさせて頂く事のできる幸せはみ仏の御加護と、有形、無形様々のお蔭さまと感謝しております。」一條智光上人

●大正のはじめに、大宮智栄上人さまのもとで、得度をなさったと聞いておりますが、失礼ではございますが、それはおいくつの時でいらっしゃいますでしょうか。

[お上人さま]
 わたくしの、数えの五つの時でございます。智栄上人とわたくしの父がいとこでございましたので、わたくしの姉をご所望になったのでございますが、やられないということで、将来女の子が生まれたら、差し上げましょうと、お約束をしたので、仏さまとお約束をして、嘘をついてはということで、わたくしがまいることになりました。生まれる前から、仏さまとご縁をいただいております。

●昭和6年に浄土宗の尼修学校を卒業され、昭和8年に20代で善光寺の副住職の座につかれたのですね。お上人様の修行時代のお話を少しお聞かせいただきたいと思います。

[お上人さま]
 わたくしの、数えの15の時、知恩院におきまして、わたくしだけが、特別に一週間、後住相伝というものを受けさせていただきました。

 時の浄土宗管長山下大僧正が、最初におっしゃったお言葉が、わたくしごときものが、善光寺の如来さまにお仕になるお方に、浄土宗の大切な御教えをお取り次ぎいたしますが、まことに恐縮でございますとおっしゃった。善光寺如来さまとは、それほどありがたい仏さまかなと、そこで教えられたわけでございます。

 それと、もうひとつ、わたくしが、善光寺にまいって、善光寺で一生どのようなことがあっても、つとめ終えようとおもいましたのは、尼修学校に5年間学んだわけでございますが、その時に、久しぶりに父が訪ねてまいりまして、で、わたくしの顔をじっとながめまして、ぽつりと、さだめし恨んでいるだろうなと、こう申しました。

 何をでございますかといいましたら、自ら進んでなった道でないから、と申しますから、どういたしまして、善光寺如来さまにお仕えすればこそ、全国各地の方から、手を合わせて拝んでいただけて、幸せをいたしております、とこうもうしましたら、眼をつぶってしばらく黙っておりました、けれどもその父の思いがなんとなくわたくしもわかりましたので、たとえどのようなことがあろうとも、心配かけるようなことはすまいと、その時にあらためて決意をいたしました。

 そのおかげさまで、苦しいこともたいしてございませんでしたけれども、父の思いを心におきまして、善光寺如来さまの偉大なことを、小さい時に教えていただいたので、今日をむかえたのも、このおかげさまだと思っています。

●わたしたちは、善光寺さまにお参りをするときも、自分の家で仏壇に向かい まして、両手を合わせてお祈りをするわけですが、この合掌というのはどのような意味があるのでしょうか。

[お上人さま]
 右はわれ、左は仏、合わせての、なかぞゆかしき、南無のひとこえという詩がございますが、左を仏さま、右をわたくし自身、合掌は仏さまと一緒にさせていただいた姿として、しっかり手をあわせている時に、いろいろな雑念というものは、本来無いわけでございます。その雑念の無い中から、自分自身を静かに省みるということが大事なわけでございます。

 とかく、手をあわせて、皆さま方がお参りされるのは、家内安全とか商売繁盛とかと思いがこめられておりますが、それはそれで結構でございますけれども、本来お参りいただくときには、自己反省のひとときとお受けくださり、御仏のお心をいただいて、願わくば、自分も、穏やかな心を持って人様と接してまいろうということを願うひとときでございます。


●お上人さまの、お心の支えになった言葉ですとか、お釈迦さまのお教えについてお話をいただきのですが。

[お上人さま]
 座右の銘とまでは、まいりませんけれども、法句経というお経のなかに「おのれこそおのれのよるべ、おのれをさしおきてたれによるべぞ、よくととのえしおのれにこそ、まことえがたきよるべぞえん」というお言葉がございます。

 どのように人様にお願いしようが、世の中のことにたいして、期待をかけようが、人様のこころもいつ変るかもしれませんし、また、金銭、物質にしても、増減のあるものでございますから、たよれるものは、結局、自分自身、よくととのえしおのれにこそと、自分自身をどうあるべきかを、つねに反省して、そして、よりよく育てるということが、いちばんではないかと、そのみ教えのお言葉をいちおう、座右の銘としております。

 言うべくしてなかなか難しいことでございますけれども、でも自分を省みてこれで良いのか、こういうことをしていて良いのかと、人様にたいして、このような態度でよいのかと省みることが大切なのではなかろうかと存じます。

●これから21世紀に向かいまして、私たちが生きていく上で、大切にしていくべきことはどのようなことでございましょうか。

[お上人さま]
 目まぐるしく移り変わっていまして、情報時代ともうしますか、情報にふりまわされている感じもいたしますけど、どのように世の中がかわりましても結局わたくしどもは、自分ひとりで生きているわけではございません、天地万物あらゆる恩恵のおかげさまによって生きているというより、生かさせていただいているお互いでございますから、自分を大切にすると同時に、人様をも大切にするということが、肝心ではなかろうかと存じます。

 人として、心におくべきは、折々反省をするということであり、また、誠実であるということであると存じます。

●慈悲ということについて、ご説明していだだけますでしょうか。

[お上人さま]
 み仏さまのお心を大慈悲、仏心とは大慈悲これなり、ということがお経にございます、縁のある無しに関わらず、すべてのものを救おうとのお心でございますが、慈悲の慈とは、喜び、楽しみ、悲とは、苦しみ、悲しみ、相手の喜び、楽しみを自分の喜び楽しみとして、相手の苦しみ悲しみを自分の苦しみ悲しみとして受け取ることができるように、おおらか心を持つことが大切だということでございます。

 とかく、ただいまの世のなか、自由だ、平等だという声のもとに、自分本位に物事を考えがちでございますけれども、ただいま、申し上げましたように、ひとりで生きおおせるものではなければ、やはり、ひとりより二人、二人より三人と和みあって行くことこそ大切ではなかろうかと、そこにこそ、家庭の円満も社会の明るさももたらされるものと存じます。

●私たち人間は、歳を重ね、老衰であれ、病気であれ、また、思いもよらぬ災害や事故により、死ということは避けられない問題とおもいますが、その、宿命的問題と向かい合いまして、私たちはどのように生きて行けばいいのか、お教えいただきたいと存じます。

[お上人さま]
 み教えにもございますように、生老病死と申しまして、生まれたからには、歳をおい、また、折々病気もする、やがては、どのように医学が進もうとも、死ななければならないということ、わたくしは、み仏のお教えに自然法爾というお言葉がございます。

 どのように、わたくしどもがあがこうとも、なるようにしかならない、大きなお力におまかせするより仕方がないというみ教えでございます。ですので、やはり、あがかないで、最善をつくして、なおかつ、だめとわかったら、その自然にまかせるということが、本来だと存じます。

 誠実におりおり反省をし、自分がだせる善意を人様にもおわかちする、慈悲の心思いやりの心をもって世の中をわたることが、世の中をあかるくする基ではなかろうかと、そう申しましても、言うべきしてなかなか実行できないことでございますが、心掛けるということは、一歩なり半歩なり前進することではなかろうかと存じます。

(一條智光上人のお言葉の一部をご紹介しました。私たちの心の支えとさせていただきましょう。)


一條智光上人のおことば

「人生は坂に似ている」

 戦争という険しい坂もあり、そのために大切な方を亡くされた悲しい坂もありました。また戦後の荒廃から立ち上がり、厳しい復興の坂を登ったこともありました。そして今日まで、いちもくさんに豊かさを求めて上りつめた坂道で、ふと立ち止まったとき、どこかで道をまちがえてきたのではと、ドキッとした方も多いのではないでしょうか。

 時の流れは、坂道とよく似ているように思われます。時が瞬時も止まることなく、流れ去っていくように、私たちの生きている様子も、平坦な道はなくて、それが上り坂であろうとも、下り坂であろうと、人生の坂道を止まることなく歩んでいるように思えてなりません。

 この坂道は二度と同じ道を戻ることはできません。ちょうど過ぎ去った時間を取り戻すことのできないように。

 私たちの人生には、苦しい坂もあれば悲しい坂もあります。そして、将来においてどのような坂に会うかは分かりません。おぼつかない足どりで歩む自分、ある時には思いもかけない悲しみの坂、困難な坂、厳しい坂に出会うこともあります。不安と混迷に沈み、歩み進む力も尽きんとするような時もありましょう。

 しかしどのような坂に出くわしても、決して歩みを止めることなく強く生きましょう。幸いにして私たちは、仏さまとのご縁をいただいており、信仰という強い杖もいただいております。どのようなときにも生命のみ親である阿弥陀さまに見守られ、ともに励まして下さることを深く心に決め、すなわち、み仏とともにいるとの信念のもとに、新しい坂に向かって、力強く一歩一歩を進んでまいりたいものです。